わからないから、まだ早い??
こころの発達に関する勘違い
恥ずかしながら、私の大きな勘違いの経験をお話ししよう。もしかしたら、発達を専門に勉強している人が陥りやすい部分かもしれない。とか言って私だけだったりして(-_-;)。
とある、訓練を拝見させてもらった時である。ポワワワーン(回想)
(発達年齢が3歳程度のAさんの訓練で)
先輩「Aちゃん、見て見て」とイラストの時計を見せる
先輩「時計の針が7の所にいって、この形になったら遊びはおしまいね(^_-)-☆」
A「はい」
このやりとりを見ていて私は感じた。(数の概念は4歳代で獲得するもの、時計が読めるようになるのはもっと先。この説明はAちゃんには早すぎるんじゃない?)
このようなことが他にも結構あって、(みんなきちんと発達の勉強してないからズレたことするんだろうな)なんて超偉そうなことを考えていたなぁ(*_*;
勘違いに気付く
でも、お風呂で「いーち、にー、…」と私が10まで数えていると、それに合わせて1歳のこどもが「んーち、いー…」と一緒に数えようとしていたんだ( ;∀;)。その時になって始めて気付いたよ。
あぁ数の概念を獲得する前の段階として、わからないけど触れる段階や、一緒に親しむ段階があるんだ!!と
よくよく考えてみれば当たり前のことで、4歳になって初めて数字と出会う…なんて超不自然じゃないか。そして、出会っていきなり理解できるものではないのだ。
まだ早い…と避けてしまわないで
もちろん、まだ発達段階が至っていない状態のこどもに感情的になって怒るのはどうかと思うし、必死になって身に付けさせることが良いとも思わない。しかし、例えば…2語文の理解しかできないから難しい話はしないとか、心の理論(他人の立場に立って考えること)ができない年齢だから保育者の気持ちを話さないとか…【どうせわからないから、触れない】という療育の態度には問題があると感じている。
私のバイブルのようになっているこの本にも、よく読むと書いてあったぞ(/・ω・)/
(引用)「赤ちゃんが泣きだしたとき、養育者(親)はどう反応するだろうか。わが子の泣き声を、未分化な不快感覚への生理反応や受動的な反射に過ぎない、と考える親はいない。わが子から自分への『訴え』、つまり能動的なコミュニケーションとして受けとめるだろう。これは乳児を、すでに自分たちと同じように感じたり考えたり意志する存在、つまり〈こころ〉をもった存在として受けとめていることを意味する…(中略)…こうした養育者の思い入れによってこそ、精神発達は支えられている。生まれたときから(いや、胎内にあるときから)すでに『こころをもつ存在』として扱われることによって、子どもは実際に『こころをもつ存在』へと育っていけるのである。」
あちゃー(/o\)どうやら、勉強不足は私のようでした
恥ずかしー